第1回


 「日本」という文字が国号として記された

最古の刻石「井真成墓誌銘」

(2017.11.11)



 2004年4月、西安市郊外の地中から「井真成墓誌銘」が発見された。それは、わが国にとって非常に大きな意味を持つ墓誌銘であった。なぜならば、中国で発見された最初の日本人の墓誌銘ということはもちろんのこと、墓誌文中に「国号日本」という文字が記されていたからである。現存の石刻資料のなかで「日本」という文字が国号として記された最も古いものであり、その歴史的価値の高さから大きな注目を集めた。




(井真成墓誌銘・原拓)




(井真成墓誌銘 部分・原拓)



 目覚ましい経済成長を続ける中国では、各地で大規模な開発工事が行われており、様々な文物が次々に発見されている。この井真成墓誌銘も、ある建設会社が西安市東郊外において、ショベルカーで工事を行っていた最中に、地中から発見された。墓誌銘は通常、墓から直接出土するものであるが、当該工事は不法工事であったこともあり、その墓はショベルカーで構わず破壊されてしまい、墓誌銘だけが発掘された。その墓誌銘もショベルカーの爪で墓誌の上部が傷つけられ、いくつかの字が読めなくなってしまった。それでも大部分の文字が残ったことは不幸中の幸いであった。

 中国では、発掘された文物は政府によって回収されることになっているが、実際には民間の闇市場を通じて売りに出されるケースが多い。なぜならば、高度経済成長の過程で生まれた多くの富裕層に古玩(骨董品)として高値で売却できるからである。発掘時に非常に多くの目撃者がいるなど特殊なケースを除き、速やかに民間の業者に売却され、闇市場へと流れていくのである。井真成墓誌銘も、発掘後すぐに民間業者に秘密裏に売りに出されたが、その噂を聞きつけた西北大学歴史博物館の賈麦明副館長が、その重要性に気付き、民間業者から買い上げたとされる。その結果、井真成墓誌銘は、現在、西北大学歴史博物館に収蔵・陳列されている。もし、賈麦明副館長によって買い上げられていなかったら、闇市場を転々とし、最終的にはどこかの資産家のコレクションの1つとしてひっそりと収蔵され、当面、世の中にその存在が知れ渡ることはなかったと思われる。

 2004年10月10日、 西北大学は陝西歴史博物館において記者会見(首次発現唐代日本留学生墓誌新開発布会)を開催し、井真成墓誌銘は公の知るところとなった。2005年5月には、日本の愛知万博の中国館において公開され、万博の目玉の1つとなった。その後、 同年7月には東京国立博物館の特別展「遣唐使と唐の美術展」にも出展された。


 次に、井真成墓誌銘にはどのようなことが記されているのかについて触れておきたい。実際には縦書きであるが、横書きにすると次のとおりである。なお、■部分は、発見時にショベルカーの爪で破損して判読ができなくなった字を示す。


贈尚衣奉御井公墓誌文并序


公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能


■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶


■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終


■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月


■日乃終于官弟春秋卅六皇上


■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官


■?以其年二月四日?于萬年縣?水


■原禮也嗚呼素車曉引丹?行哀嗟遠


■兮?暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰


■乃天常哀茲遠方形?埋于異土魂庶


歸于故ク



 訓読文は次のとおり。

贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。


公、姓は井、字は眞成、國號は日本。才は天縱に稱ひ、故に能く命を遠邦に■、騁を上國に馳せり。禮樂を蹈み、衣冠を襲ひ、束帶して朝に■、與に儔び難し。豈に圖らんや、學に強めて倦まず、道を聞くこと未だ終へずして、■移舟に遇ひ、隙奔駟に逢へり。開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終へり。春秋卅六。


皇上■傷して、追崇するに典有り。詔して、尚衣奉御を贈り、葬むるに官をして■せしめ、?ち其の年の二月四日を以て、萬年縣?水■原に?るは禮なり。


嗚呼、素車は曉に引きて丹?哀を行ふ。遠■を嗟きて暮日に?れ、窮郊に指びて夜臺に悲しむ。:其の辭に曰く「乃の天の常を■、茲の遠方なるを哀しむ。形は?に異土に埋むるとも、魂は故クに歸らんことを庶ふ。」と。



釈文は次のとおり。

尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 <序と并せる>



公の姓は井、字(あざな)は真成。国号は日本。才は生まれながらに優れていた。故に命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。


中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立てば、並ぶ者はなかった。よく勉学に励んでいたが、それを成し遂げないまま突然の死を迎えるとは、誰も予想もしないことであった。


開元22年(734)正月■日に官舎で亡くなった。年齢は36歳であった。


(玄宗)皇帝はこれを悼み、しきたりに則って功績を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、官葬をとり行わせた。その年2月4日に万年県の河の東の原に葬った。礼に基づくものであった。ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。


真成公は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、人里離れた郊外の墓の中で悲しみに包まれている。


その言葉にいうには、「死ぬことは天の定めであるが、哀しいことに、ここは故郷から遠く離れている。私の体は既に異国の土に埋められても、私の魂は故郷に帰ることを願っている」と。




 日本に帰ることなく最期を迎えた井真成の気持ちを汲み取った内容であり、同じ日本人として心打たれるものがある。墓誌銘には、井真成が734年に36歳で亡くなったことが記されている。逆算することで井真成は699年に生まれたことがわかる。井真成が遣唐使として唐に渡ったのは、彼の年齢や遣唐使の派遣時期等から717年と考えられる。彼が19歳の時である。

 この遣唐使は「第9回遣唐使」であり、阿倍仲麻呂や吉備真備なども参加していた。井真成の参加した第9回遣唐使船は、鹿児島から奄美を経由し、東シナ海を横断する「南島路」が取られたとされている。第9回遣唐使は、翌718年に帰国したが、井真成は長安に残った。第10回遣唐使が派遣されたのは733年で、その帰国が734年である。彼が亡くなったのも734年である。彼が唐に永住すると決めていたのであれば話は異なるが、入唐後17年経過していることを考えると、彼は第10回遣唐使とともに日本に帰国する予定であった可能性もあり、もしそうであれば、帰国直前に亡くなったことになる。

 そんなことを考えながら、改めて墓誌銘の最後に記された「死ぬことは天の定めであるが、哀しいことに、ここは故郷から遠く離れている。私の体は既に異国の土に埋められても、私の魂は故郷に帰ることを願っている」というくだりを読むと、上記の仮説があながち誤りではないような気がしてならない。


 井真成と一緒に唐に渡った阿倍仲麻呂は、帰国を試みたが、船で帰国途中に遭難したため、日本に帰ることができずに長安に戻り、再び唐朝に仕え、長安で一生を終えた。長安から帰国する際に、送別の宴席上で王維ら友人の前で詠んだとされる「天の原ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という歌は有名である。非常に有能で、皇帝である玄宗から重用されていたこともあり、なかなか帰国の許しが出なかったようである。それだけに、帰国を許されたときの喜びはひとしおであったろうし、帰国船の難破により再び長安に戻らなければならなくなったときの悲しみは非常に深いものであったと推察される。ただ、結果的に、ではあるが、そうした切ないエピソードが後押しする形で、仲麻呂の名が多くの人々に知られたのも事実である。

 一方、井真成は、その生涯が短かったこともあり、この墓誌銘が発見されるまで、その名を知られることはなかった。ただ、亡くなった時点では、玄宗皇帝から「尚衣奉御」という官位を送られている。この官位は、生前のものではなく、死後に賜ったものと考えられるが、玄宗皇帝の時期のこの官位は、皇后の妹の夫が就いているなど、かなりの高級ポストであり、身分の低い下級官吏が就けるものではなかったと考えられる。それだけに、死後とはいえ、玄宗皇帝からこうした高い官位を授けられるということは、玄宗が井真成の生前の人柄と才能を高く評価していたことが窺われる。

 ところで、中国大使館のHPに掲載されている「読み解く『井真成』の謎」には、以下のようなことが書かれている。


留学生は入唐後、学識と家柄によって国子学、太学、四門学などのコースに分けられる。国子学、太学を学ぶ者は五品以上の家柄の者、四門学は七品以上の家柄の者に限られた。史料によると、阿倍仲麻呂は太学のコースに入った。吉備真備は太学のコースには入れなかったが、幸い、四門学の助教授、趙元黙の門下に入り、直接の指導を受けることができた。「井真成」もこうしたコースで勉強したのではないか。科挙の試験で「進士」に合格した阿倍仲麻呂は、とんとん拍子に出世し、「井真成」が亡くなる3年前には、「左補闕」という従五品下の官位にのぼった。「井真成」が死後、封じられた「尚衣奉御」は、従五品上の官位で、阿倍仲麻呂より位は高い。しかし生前はほぼ同じ官位だったと推定される。




 もちろん推察も入っているが、井真成も阿部仲麻呂に劣らぬ活躍をしていたのではないかと思われる。


 もう1つ、井真成の出自について触れておく。彼の出自ははっきりとしたことが分かっておらず、さまざまな説がある。井真成が日本名だとする説と中国で改名されたという説があり、さらに改名説には、日本名にちなんでいるという説と、全く別の中国風の名前に改名したという説に分かれる。どの説に優劣があるという訳ではないが、国内では、日本名にちなんでいるという説を唱える人が多い。仮にそうだったとした場合、「葛井」氏説と「井上」氏説が有力である。葛井、井上氏ともに大阪府の藤井寺に本拠をおいた渡来系の氏族であった。葛井氏は葛井寺を氏寺とし、その周辺に集落を営んでいた。井上氏は衣縫廃寺あるいは大井廃寺を氏寺とした可能性があるとされており、居住域もその近辺であったと推察される。

 ともあれ、この時期に遣唐使船で渡唐した留学生の多くは中堅貴族の子息であり、井真成の家計もそうした家柄であったことが想像できる。留学生として選ばれた彼らの目的は、当時、政治・経済・文化の中心であった長安で学んだ知識を祖国に持ち帰り、日本の国づくりのために尽力することにあった。井真成はそうした期待を背負って長安で勉学に励み、玄宗の目にとまるほどの活躍をしていたのだろう。


 井真成が仕えた頃の玄宗は、唐の絶頂期であり、その世は「開元の治」として知られている。ただ、井真成が死後、唐は大きな岐路に立つ。玄宗は、737年に寵妃武恵妃が死去した後、玄宗は新たに寵愛に足る美女を求め、息子寿王の妃となっていた楊玉環を「貴妃」の地位に就けた。いわゆる楊貴妃である。井真成の死の3年後のことである。

 その後、玄宗は、楊貴妃を寵愛するあまり、楊貴妃の兄である楊国忠を重用するが、楊国忠とライバル関係にあった安禄山の反発を招き、安禄山の謀反を引き起こすこととなった。いわゆる「安史の乱」は、755年から763年にかけて8年続き、その間、国が大きく乱れた。乱は、最終的にはウイグル軍の協力を得た唐軍によって平定されるが、唐王朝の権威は著しく失墜することとなった。

 唐は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した結果、反乱平定後は、地方の至る所に小軍事政権(藩鎮)が誕生した。これ以降、唐は、実質的には長安近辺を治める一政権に成り下がったといえば言い過ぎかもしれないが、衰退の一途を辿っていくこととなる。


 こうしたもとで、遣唐使の位置付けも変化していった。奈良時代後期や平安時代になると、遣唐使の政治的な重要性は低下する一方、唐の文化、とりわけ仏教の研究などに力点が徐々にシフトしていった。天台宗の祖・最澄と真言宗の祖・空海が遣唐使船で唐に渡ったのもこの頃である。

 最澄と空海は第18回遣唐使船で804年に唐に渡ったが、空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される橘逸勢もこの船に乗船している。いずれも語学で苦労したといわれる。わが国ではその名を知らぬ人はいないくらい有名な3名であるが、情報が発達していない当時の環境下で異国語を自由に話せるようになるのは非常にハードルの高いことであり、その点でも、玄宗から重用されるほど活躍した阿倍仲麻呂や井真成がいかに優れた人物であったかが窺われる。

 894年、遣唐使は、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした菅原道真の建議により、停止となる。井真成が長安で亡くなってから、ちょうど160年後のことである。



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